ホーム > クローズアップ > 聞いてみなければ解らない!人物インタビューシリーズ

聞いてみなければ解らない!人物インタビューシリーズ

『キヤノン(中国)有限公司 小澤 秀樹 社長兼CEO インタビュー!』2023/6/29

<strong><font style="font-size:19px">フルスイングしなければ、出場機会は得られない </font></strong>

フルスイングしなければ、出場機会は得られない

<strong><font style="font-size:19px">——キヤノン(中国)有限公司 小澤 秀樹 氏</font></strong>

——キヤノン(中国)有限公司 小澤 秀樹 氏


 
キヤノン(中国)有限公司
小澤 秀樹 社長兼CEO

 

キヤノン株式会社副社長執行役員
キヤノンアジアマーケティンググループ社長
キヤノン(中国)有限公司社長兼CEO

1973年に慶応大学法学部卒業後、キヤノングループに入社。これまで43年間を海外で勤務する。長年にわたる世界各国での勤務経験から、「グローバル人材」や「グローバルなビジョン」に関する独自の見解を有する。

キヤノン(中国)は中智日本企業倶楽部上級会員と中智智櫻会のダブル会員であり、中智の「老朋友」でもあります。このたび中智からの推薦で、2023HRoot人的資源フォーラム・IN北京において、キヤノン(中国)の小澤 秀樹社長兼CEOにご講演いただきました。
講演後には、HRootがインタビューを行い、長年にわたる小澤社長と中国との絆について語っていただきました。
記念すべき中智日本企業倶楽部智櫻会の経営者インタビューシリーズの第100回目は、小澤社長のインタビューを心を込めた翻訳によりお届けします。
平素より小澤社長の日本企業倶楽部智櫻会に対するご支援とご指導に心より感謝申し上げます!

前書 中智日企倶楽部智櫻会より
2023年5月25日

キヤノンの中国での事業は1970年代に遡る。技術提携から始まり単独資本による工場建設、販売会社の設立など、これまで様々な経営モデルを模索し続けてきた。1997年3月にはキヤノン(中国)を設立し、中国市場での本格的な販売をスタートした。2022年、キヤノンは中国進出25周年を迎えた。この25年間、キヤノンと中国は共に成長し、互いに成就してきた。現在では、華北、華東、華南の3大エリア本部を含む13拠点を置き、ショールーム、クイック・リペア・センター、クイック・サービス・ステーション等を含む全国をカバーする販売サービスネットワークを構築し、中国の消費者のニーズに応える新たなサービスを生み出し続けている。

2005年からキヤノン(中国)社長兼CEOを務める小澤 秀樹氏は、中国本土での勤務が今年で19年目を迎える。これほど長く同一地域でCEOを務めているのは、グローバル企業の経営者を見渡しても「唯一無二」の存在である。


インタビューを受ける小澤社長

今回のインタビューは、キヤノン(中国)社長兼CEOの小澤 秀樹氏に、長年にわたる中国との絆について語っていただいた。

 

◆◆◆ 奮闘、青春から変わらぬ素地 ◆◆◆

小澤 秀樹氏と初めて対面した時、誰もが控えめで几帳面、仕事に妥協を許さない日本のビジネスパーソンという印象を受けるだろう。しかし実際は異なり、ステージ上で熱弁を振るい、従業員たちと元気に歌ったり踊ったりする姿を見ると、古希を過ぎたグローバル企業の経営者とは想像もつかない。

1950年代以降、日本は本格的な戦後復興と工業化が進み、経済は急速な発展を遂げ、これにより、日本が現代化と世界的な経済大国に向けて邁進するための強固な基礎が築かれた。経済繁栄の時代、日本の若者が重要な役割を果たした。当時の社会が若者に期待したのは、彼らが家計に責任を負い、家庭の平穏と豊かさを守ることであった。彼らには会社に対し忠誠心を持ち、会社の利益を最優先に考えることが求められた。職場では厳格な規律と伝統的な仕事観を守り、ビジネスの成功と昇進のため尽くしてきた。

両親や先輩からの影響からか、小澤氏は幼い頃から「奮闘」と「勝ち取る」を人生の信条としてきた。1973年に慶応義塾大学法学部を卒業した小澤氏は法律関連の職業を選ばずキヤノンに入社する。キヤノンではカメラ事業部の営業職として50年に及ぶ自らのキャリアがスタートした。


米国の宣伝会でカメラを紹介する小澤社長

管理層となってから、小澤氏は「フルスイング」の企業風土を築き上げるべくスピリットの注入を開始する。「我々はプロフェッショナルなのです。会社から雇われているという点では、プロのアスリートと同じであり、十分に優秀でなければ出場する機会を得ることはできません。もし自分の現状に不満を抱いているのであれば、積極的にチャレンジしてみるとよいでしょう」と小澤氏は語った。

「現在、多くの若者が努力しようとせず、事なかれ主義で競争を避ける「寝そべり」の生き方に憧れています。これは中国や日本で一般的に見られる風潮です。経済成長が鈍化し、国際情勢は不安定であるため、多くの若者が戸惑い落胆していることは理解できます」さらに小澤氏は続ける。「しかし、これを努力しないことの言い訳にすべきではありません。どの様な時代であっても困難やチャレンジは存在します。私が入社した当時、日本は高度成長期でしたが、非常に厳しい競争にさらされました。実際に私は入社三年目のころに会社を辞めようと考えたこともありましたが、歯を食いしばって努力を続けてきました。『一分の努力に一分の収穫』、『梅の花は寒い時こそ美しく香る』という中国の諺にあるように、私たちは困難を克服するたびに、達成感を重ねていくのです。自分のキャリアを振り返ったとき、これまでにどれだけ多くの達成感を得られたかが、どれだけ高く、どれだけ遠くまで飛べるかを決定する重要な要素であることに気づくでしょう」


米国のキヤノン製品発表会に登壇する小澤社長

 

◆◆◆ 19年間守り続けた純粋な情熱 ◆◆◆

「キヤノン(中国)のCEOに就任して以来、既に19回の春秋を重ねてきました。グローバル企業の経営者の中で、これほど長く同じ地域でCEOを務めているのは、私の他にいないのではないでしょうか」と小澤氏は冗談めかしつつも感慨深げに語った。

小澤氏の50年に及ぶキヤノン人生のうち、日本で勤務したのは僅か7年間にすぎない。これまでにニューヨークで13年間、香港で5年間、シンガポールで7年間勤務し、残りの19年間は中国で勤務してきた。自分のキャリアを振り返り、「私は世界の経済発展の生き証人と言えるでしょう。70年代は日本、80年代はアメリカ、90年代は東南アジア、そして21世紀は中国。どの時代も世界で最も経済発展著しい地域で、私は働いていました。まさにこの経験こそが、非常に多元的でグローバルなマネジメントスタイルを築くうえでの基礎となりました」と小澤氏は語った。

小澤氏は中国に駐在するまで、実は中国についてあまりよく知らなかったという。「まさか自分が中国に赴任を言い渡されるとは夢にも思っていなかったため、当時の私は中国に対して何の印象もなく、ましてや親しい友人もいませんでした。なので、会社から中国赴任を打診されたとき、積極的な興味や意志はありませんでした」

しかし、その後に好奇心とチャレンジ精神を発揮し、北京から小澤氏の新たな征途が始まった。


中国語キャッチコピー「感動常在」は多くの消費者の心を掴んだ

「初めて中国に赴任した頃のことを、今でもはっきりと覚えています。世界で最も人口が多く、経済成長のスピードが速いこの国で、どうすればキヤノンを根付かせることができるのか。北京の小さなオフィスで、どの様な企業風土を築くべきかを、ずっと考えていました。あれから月日が経ち、ある程度の結果を残すことができました。中国市場に進出した当時、キヤノン(中国)の従業員数は100人足らずでしたが、現在では1200人に増えました。キヤノングループ全体では、中国全土に販売、生産、R&Dなど全部で15の会社があり、総従業員数は2万人を突破しました」とキヤノン(中国)の成果について、小澤氏は誇らしげに話した。

19年間の中国生活の中で、小澤氏は多くの中国の人々と出会い、中国の文化について理解を深め、彼の中国に対する印象や感情は変化し続けている。今までで最も思い出深い出来事について尋ねると、小澤氏は即答した。「2002年にSARSが流行したとき、私は香港のCEOでした。2020年に新型コロナが世界的に流行したとき、中国本土のCEOでした。これらの深刻な疫病に直面したとき、私とキヤノン(中国)の従業員たちが互いに励ましあい、力を合わせることで、従業員の心と体の健康を維持しながら、同時に事業の順調な発展を実現することができました。この様にみんなが心を一つにした、同舟共済の月日は、我々の発展と成長の歴史に深く刻まれています」


SARS流行中、キヤノン(香港)は現地の市民と心を一つに協力した

近年、中国の産業構造が変化するのにともない、一部の労働集約型産業は徐々に中国から第三国へ移転しており、多くの人がキヤノンの中国に対する展望を心配している。このことに対して、「中国市場は14億人の巨大な市場であり、消費者が時代とともに変化するのは正常なことです。私とキヤノンは試行錯誤しながらも立ち止まることなく前進し続けます。私は19年間を中国で過ごしてきましたが、中国での仕事が大好きです。まだまだ日本へ帰国せず、この場所で働き続けたい生活し続けたいと考えています」と小澤氏は答えた。

中文 HRoot原文
和文 中智日企倶楽部智櫻会 翻訳
写真 キヤノン(中国)提供

※「会社名、役職名はインタビュー記事発表時の名称です」