ホーム > クローズアップ > 聞いてみなければ解らない!人物インタビューシリーズ

聞いてみなければ解らない!人物インタビューシリーズ

『日中経済協会上海事務所/成都事務所 笹原 信 所長 インタビュー!』2022/9/30

<strong><font style="font-size:19px">日中友好の初心を忘れず、次の50年に向けて </font></strong>

日中友好の初心を忘れず、次の50年に向けて

<strong><font style="font-size:19px">——日中経済協会上海事務所/成都事務所 所長 笹原 信氏</font></strong>

——日中経済協会上海事務所/成都事務所 所長 笹原 信氏


 
日中経済協会上海事務所/成都事務所
所長 笹原 信氏

 

1982年に慶応義塾大学卒業後、日本航空(株)入社。羽田空港国内線旅客課、国際客室乗員部・客室乗務員、札幌支店を経て、87年から2年間北京へ留学する。帰国後、新東京国際空港公団(現成田国際空港株式会社)出向、秘書室等を経て96年に北京支店勤務、09年に天津支店長、10年大連支店長等を歴任。18年7月より日中経済協会東京本部、21年4月より日中経済協会上海事務所/成都事務所所長に就任。

 

◆◆◆ 国交正常化前から日中の貿易拡大、経済交流促進に取り組む ◆◆◆

戦後、長い間日本と中国との間には国交がなく、交流のない時代が続いていた。「1950年代になって、いわゆる友好商社を通じる貿易が実施されました。そして1962年11月9日に調印された『日中覚書貿易協定』に基づき、双方に覚書貿易事務所(日本側代表は岡崎嘉平太氏)が設立され、『覚書貿易』が開始されて戦後日中貿易は新たな発展期を迎えました。日中両国はそれぞれ相手国に代表部として連絡事務所を設け、両国間で長期・総合・計画的に貿易を実施・拡大することを目指しましたが、更に外交関係の無い当時では、覚書貿易事務所が準政府機関として実質的には政府間交流をも行っていました。覚書貿易の下に、両国間の交流は徐々に深まり、その結果、幾多の紆余曲折を経ながらも1972年9月29日に北京で田中角栄総理と中国の周恩来総理が日中共同声明に調印し、日中国交回復につながりました」と、中日国交正常化までの経緯を笹原所長は解説する。


1972年に中日国交正常化を実現したことは、中日の戦後の対立と隔絶を完全に終わらせ、戦後の両国関係における新たな出発の原点となり、中日関係史上の新しい1ページを切り開いた。

「国交の正常化に伴い、覚書貿易事務所は準外交チャネルとしての役割を終了し、その幕を閉じることとなりましたが、日中間の経済交流の促進は日本の将来にわたる発展にどうしても欠かせないものであります。このため覚書貿易事務所の交流促進の機能を引き継ぐ機関を設けようという要望が各界から湧き上がりました。これを受けて、経済団体連合会をはじめ、産業界・経済界が中心となって、日本政府の支援も得て、公益法人として日中経済協会が発足しました」


 

◆ 日中経済交流の架け橋として日系企業の対中ビジネスを支援 ◆

72年の設立以来、日中経済協会は、日中友好7団体のひとつとして、日中経済貿易関係の健全かつ安定した発展の実現に重要な貢献を果たしてきた。「日中経済協会では、長年にわたる対中交流の実績と豊富なノウハウを活用し、日系企業の対中ビジネスを支援しています。様々な交流活動や海外事務所等を通じて収集する最新の情報・データを、当協会の設立趣旨に賛同頂きました賛助会員を中心に、各種講演会・セミナーや出版資料、ホームページ等により提供しています」と、笹原所長は日中経済協会の役割について話す。  日中経済協会は、日系企業の対中ビジネス支援だけではなく、日本経済界と中国との橋渡し役として、経済界首脳による訪中代表団を派遣している。

「中国国家指導者、主要経済官庁との間で、両国経済関係の発展をめぐる諸課題について直接対話交流を深めるため、1975年に稲山嘉寛会長(初代新日鉄社長)を団長とする第1回日中経済協会訪中代表団を派遣し、周恩来総理との会見を果たしました。それ以来、当協会では2020年からの新型コロナの流行で日中間の往来が中断するまで、毎年欠かさず訪中代表団(2015年から日本経済団体連合会と日本商工会議所との合同訪中代表団)を派遣していました。また06年には、中国での省エネ・環境ビジネス展開でニーズのある日本企業・団体を会員として、日中省エネルギー・環境ビジネス推進協議会(JC-BASE)を設立し、省エネフォーラムを開催しています。省エネフォーラムは、日中省エネ環境ビジネス拡大のための情報プラットフォームとしての役割を果たしています」


 

◆◆◆ コロナ禍でも日系企業の中国市場への高い関心は変わらない ◆◆◆

新型コロナ流行の影響による厳しい経済環境の続く状況下においても、中国の新たな市場開拓や投資を希望する日系企業からの相談が寄せられていると笹原所長は話す。「疫病の影響により在宅勤務が増え、自宅の住環境を快適にする製品、例えば椅子や机、台所用品等を取り扱う企業や、高齢化社会を見据えて介護・福祉関連企業、中国の人々が自由に日本旅行へ行けない状況が続いているためか、日本自治体事務所の方々も努力されている日本の地方特産品に対する興味や関心、個別の需要増加もあり、日本の特産品を扱う地方企業も、中国での市場開拓に積極的です」と笹原所長は話す。  

しかし、課題もあると笹原所長はいう。「ビジネスとして中国市場に参入したいが、どうすればよいかわからない等、様々な理由で中国市場にアクセスできていない事業者が現在でも少なくありません。また、日中間の人的往来が止まっている点は、中国との経済交流や事業展開の検討に大きく影響しています。現実にビジネスを進める上では、現地を実際に訪れ、地元政府や、市場関係者、中国側協力先との会話、信頼関係構築は不可欠でオンライン交流だけで事業展開を決定することは現実的にあり得ないです」


 

◆◆◆ 客室乗務員として日中ビジネスの黎明期に関わる ◆◆◆

笹原所長は学生時代、スポーツに打ち込んでいた。「高校時代はハンドボール部、大学入学後はボート部に所属、オリンピックや世界大会に日本代表で出場する事を目指し毎日練習に励んでいました。特に高校・大学での生活を通じ、勝負の厳しさ、成果を上げる為には、自分たちが厳しいトレーニングをやり遂げるのみならず、優れた指導者とともにチームで考え抜く事、卒業生OBOGの支援、外部の関係する方々のご理解ご支援が如何に大切か、を学びました」

大学卒業後、日本航空に入社する。「日本航空に入社後、羽田空港国内線を利用されるお客様の搭乗・到着手続き係として2年間勤務し、その後は国際線の客室乗務員として働きました。世界各国の路線に乗務、その中に中国も含まれていました。84年冬の北京への初フライトは、今でも忘れられない記憶となっています。改革開放から間もなく、中国からはもちろん、日本から観光に訪れる人もまだ少ない時代でした。私が乗務した便も乗客のほぼ全員がビジネス目的のお客様で、初めて訪れる異国の地で新たなビジネスを始めるという期待感と緊張感が、機内に満ちていたのを覚えています。当時は北京へは上海上空経由でなければならず、5時間近くかかりました。今では韓国上空経由で東京から北京まで3時間余りで到着することができます。あの時代からすると、中国と日本の距離は本当に近くなったものだと感じます」

 

◆◆◆ 約束を守ることが日中友好の基礎となる ◆◆◆

インタビューの最後に、日中友好のため、次の50年に向けた想いを笹原所長に尋ねた。

「日本人の一番の美徳とは、約束したことを最後まで守り通す誠実さではないかと私は考えます。約束を守ることから信頼関係が生まれます。先人たちによるその積み重ねが、この50年間に日中友好を深める力になったのだと思います。実際のビジネスの現場では厳しい交渉もありますが、根底に日本人の美徳を忘れず、本音で話し合えば、お互いウィンウィンの関係を築くことができるものと信じています。また、日中経済協会としては、2020年から中断している合同訪中代表団の早期再開を願っています。そして、これからの50年も、関係者の皆様からの協力も頂きながら、上海や長江デルタ地域、成都や重慶等、中国各地で積み重ねてきた豊富な経験とノウハウを活用し、日系企業の対中ビジネスの支援を続けていきたいと思います」 


中智の感想:

今年は中日国交正常化50周年の記念すべき年にあたります。日中経済協会は前身の覚書貿易事務所の頃から中日国交正常化の実現に貢献され、中日国交正常化後は中日貿易発展に重要な役割を果たしてきました。笹原所長へのインタビューを通じて、誠実に約束を守る日本人の美徳から互いの信頼関係が生まれ、中日の平和と発展の50年が実現できたのだと理解できました。次の50年に向けて、日中経済協会が中日経済交流の架け橋として更なる重要な役割を担われることを期待いたします!