聞いてみなければ解らない!人物インタビューシリーズ
『上海日本商工クラブ 中村 仁 事務局長 インタビュー!』2021/2/26
疫病流行を乗り越え、日系企業が復工復産を実現するまで
——上海日本商工クラブ事務局長 中村 仁 氏
1960年東京生まれ。1983年に東京外国語大学モンゴル語学科卒業後、東京商工会議所に入所。入所後は、国際部勤務を経て、日本商工会議所の米国カンザスシティ事務所出向、北ケーブルネットワーク(株)出向、その後東京商工会議所へ戻り、国際部、企画調査部を経て2011年1月から2015年3月まで上海日本商工クラブ事務局長に就任、帰任後は広報部長務め、2018年4月より上海へ再赴任し現在に至る。
◆◆◆ 30社から世界最大規模の在外日本人商工会議所組織へ成長 ◆◆◆
上海日本商工クラブ(以下、商工クラブ)は、1982年に上海へ進出している日系企業30社が集い、懇親と情報交換を目的に任意団体として発足した。その後、2004年には法人格が認められ、現在では2300以上の会員数を擁する世界最大規模の在外日本人商工会議所組織となっている。
日本における商工会議所の原点は、1878年に創立した「東京商法会議所」に遡る。
「東京商法会議所」は、日本の近代経済社会の基礎を築いたと評される実業家の渋沢 栄一が中心となり、商工業者の意見を交換し、それを広く発信するための組織として創立され、渋沢が初代会頭に就任する。その後、幾度の変遷を経て、1954年に法律に基づき現在の「東京商工会議所」となる。
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東京商工会議所の重要な役割の一つに経済界の代表団を組織し外国政府との交渉があると中村事務局長は話す。「54年に東京商工会議所が設立された当時の日本は敗戦国として外国から未だ信用を得られておらず、オーストラリア政府は日本への鉄鉱石の輸出を禁止していました。産業発展のため、オーストラリア政府に鉄鉱石の輸出を許可してもらおうと企業が個別に交渉するのですが、なかなか相手にしてもらえません。そこで、東京商工会議所が当時副会頭だった永野 重雄 富士製鉄社長(現日本製鉄)を団長とする通商親善使節団を派遣し、オーストラリア政府と交渉を行い、日本への鉄鉱石の輸出が認められました。これをきっかけに1963年に日豪経済委員会が設立され、現在も毎年交互交流が続いています。私自身も、1980年代から2000年頃まで交流を担当していました」
現在、日本国内には約515の商工会議所組織が設立されており、互いに緩やかに連帯しつつも、それぞれ独立した組織として活動している。上海日本商工クラブも、在外商工会議所組織の一つとして、独立した運営活動がなされている。なお、全世界には、100を超える在外日本人商工会議所組織が存在するという。
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◆◆◆ 総領事館、ジェトロ上海と連携し会員企業の復工復産を支援 ◆◆◆
昨年の春節を迎えるころ、上海でも疫病の状況が深刻化しつつあった。そのような状況下において商工クラブでは会員企業のため積極的な情報発信に努めていた。「在上海日本国総領事館やジェトロ上海と協力して情報収集にあたり、最新の感染状況や政策情報をまとめ、「新型コロナ対策メルマガ」として、会員に対して日々送信していました。その中で中智さんから提供していただいた情報も一部共有させていただきました。情報発信を続ける中で、一部の会員企業から中国国内でマスクが不足し、マクスが無いために出勤できないという声をいただきました。そこで2月中旬には会員企業の復工復産の一助とするため、マスクのストックを持つ会員企業に拠出をお願いし、不足している会員に提供する会員共助マスク支援活動を実施し、15社から22,745枚の拠出を受け、121社・個人に配布しました」と、中村事務局長は当時の状況を振り返る。
◆◆◆ 困難を乗り越え、チャーター便の運航を実現 ◆◆◆
3月から上海の感染状況は徐々に落ち着きを見せはじめ、多くの企業で復工復産が本格化する。「ところが、この頃から欧米や日本の感染が拡大し、3月半ばから日中間の航空便が厳しく制限されました。3月28日からは、中国国外にいる外国人の有効なビザの効力を停止され、多くの日系企業の駐在員が中国に戻れなくなりました」
中村事務局長は続ける「4月、5月には復工復産に必要な日本人駐在員に特別なビザ取得のための招聘状が発出されるようになり、7月以降はビザの発給数が拡大されました。しかしながら、航空便の制限があるため、航空チケットの予約が取れず上海へ戻れない状況が続いていました」
日系企業経営者や駐在員が上海に戻れない状況が長期化するにつれ、在中日系企業の経営活動に大きな影響を与え始めた。
「上海の日系企業が正常に事業を行うためには、上海に戻れていない駐在員や新規赴任者の来海が不可欠であると考え、チャーター便の可能性を探り始めました。しかしながら、上海市政府関係者からは、到着客の防疫措置や隔離施設のキャパシティの問題から、否定的な見解が出されました」と中村事務局長は語る。
それでも諦めず可能性を探り続ける中で、好機が訪れる。「7月27日から上海市の入境者の隔離政策が、14日間の集中隔離から、集中隔離7日+自宅隔離7日に緩和されました。これにより隔離施設に多少の余裕ができることが想定され、さらにチャーター便の申請方法も事務所のある長寧区政府へ申請することが判明しました。そこで本格的にチャーター便の運航実現に向け石原理事長(当時)を座長に「チャーター便プロジェクトチーム」を立ち上げました」長寧区政府、会員企業のJTB、JAL、ANA及びジェトロ上海などの協力により、9月に2便のチャーター便運航が実現し、合計352名の駐在員及び日本人学校の教師が、無事に上海へ戻ることができた。
その他の商工クラブが行った活動について、「7月には上海市商務委員会への日本人渡航に関する要望の提出、10月には上海市税関長との懇談会などを通じ、上海市政府へ日系企業の要望を伝えました。また、上海市の疫病の情況が落ち着いてきた夏以降は、防疫に配慮しつつ講演会や懇親会を開催しました」と中村事務局長は話す。
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◆◆◆ 企業誘致や観光を促進し、地域の発展に貢献したい ◆◆◆
中村事務局長は大学卒業後、東京商工会議所へ就職する。「国際交流の仕事に憧れ、東京商工会議所へ入所しました。入所後は志望通り国際課に配属され、幸運にも本田技研工業創業者の本田 宗一郎氏やソニー創業者の盛田 昭夫氏に直接お会いする機会に恵まれました」
その後、90年から94年までの4年間を米国ミズーリ州の日本商工会議所カンザスシティ事務所で過ごす。「80年代に日米の貿易摩擦が激化し、米国国内において、日本の輸出製品が米国の雇用を奪っているとの激しい批判に晒されました。そのため、日本企業は米国で工場を設立して現地で生産し雇用を生み出すため、積極的に米国進出を図るようになりました。そこで日系企業の米国進出をサポートするため、日本全国の商工会議所組織が加盟する日本商工会議所が米国に設立したのが、カンザスシティ事務所でした」
この時代の経験が、商工クラブの運営にも役立っていると中村事務局長はいう。「カンザスシティ事務所の駐在員は私ひとりだけでした。私ひとりで日本商工会議所の看板を背負い活動する中で、商工会議所として、できる事、できない事の判断がうまく出来るようになりました。また、アメリカの現地にある商工会議所やそれに類する団体の活動から、商工会議所の意義とは、地域に雇用を生み出すことであり、企業の誘致や観光促進を通して、地域に雇用を生み出し、地域の発展に貢献することにあるのだと学びました。」
94年に帰国後、ケーブルテレビ会社への出向を経て東京商工会議所へ戻り、2011年から15年まで商工クラブへ赴任し、一度目の事務局長を務める。「15年に赴任を終えて日本への帰任後は、広報部長となり、2017年には三団体(日中経済協会、日本経済団体連合会、日本商工会議所)訪中団の一員として北京を訪問し、李克強総理との面会を果たしました」
2017年李克強総理と訪中団の記念撮影(中村さんは上から三段目中央右より) |
そして、18年から現在まで二度目となる事務局長を努めている。
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◆◆◆ 中国速度で中国人の意識も変化 ◆◆◆
中国の経済社会の発展や変化のスピードが速いことを指して「中国速度」と言われているが、中村事務局長もそれを実感しているひとりだ。
「2011年に初めて上海へ赴任した際、既に上海には高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並みが続き、とても発展しているように見えました。しかし、実際に暮らしてみると、交通マナーは悪く、外国人に接するときは、遠慮がちで、どこか下から上を見上げるような態度に感じられました。ところが、18年に再び赴任した際には、買い物は現金から支付宝や微信に変わり、交通マナーは格段に良くなっていました。それになにより、中国の人たちが自国や自分自身に自信と誇りを持つようになり、外国人に対して対等な目線で接するようになっていました」この十年間を振り返り、最も大きな変化は、中国の人たちが自信を取り戻し、外国人と対等に付き合えるようになったことではないだろうかと、中村事務局長は話す。
最後に、願いをこめて今年の展望を伺った。「日中関係は、良好な状況が続いており、今年は東京オリンピック、来年は北京オリンピックが控えています。一日でも早く疫病が収束し、再び人の往来が活発になることを願っています。そして日系企業にとって、より多くのビジネスチャンスが生まれることを期待しています。」
インタビュー風景 |
中智からの感想:在上海の日系企業人の間では、中村事務局長はよく知られており、いつも交流会への支援や、会員企業へのサービスに尽力され、温和で中国通というイメージを持たれています。アメリカやオーストラリアなどの豊富なグローバル経験が、在中ビジネスへの支援にも大きなプラスになっているものと思います。日本の商工会議所の歴史や、戦後の日本企業が困難な時期における商工会議所の企業支援に対する取り組み、中村様の豊富な経験談、さらには疫病流行期間中の企業支援など、詳しく説明していただき大変勉強になりました。一日も早く、日中間の自由な往来が再開され、日中の企業にとって、多くのビジネスチャンスが生まれることを期待しております。最後に、中村様の日中経済発展に対する多大なご貢献に感謝いたします!
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